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歴史を変えた長州藩の若者たち・・・長州ファイブ

2007.11.04(16:59)
本州最西端の下関と九州に挟まれた関門海峡は、武家社会の出発点となった 壇ノ浦 ( だんのうら ) の源平合戦からおよそ700年後に、馬関戦争が勃発。
はからずも武家社会を終わりに導く歴史の転換の 舞台 となっりました。
1864年(元治元年)7月、長州藩はそのころ外国船にさかんに砲撃を加えて海峡封鎖をしていました。
海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、英 仏 蘭 米の四国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成し、同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現 下関市)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しまた。
寄せ集めの四国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州藩は、以後政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入、軍備軍制を近代化に突き進んで行きます。
同時期に長州の若き志士、長州藩の5人の若者が、英国に向けて密かに横浜を出港しました。
2人は幕府の長州征伐で、祖国の危機を知り、英国到着後半年にして帰国、残る3人はそのまま残り西洋の最新の科学・技術の吸収に努めました。
先に帰国した2人とは、後に明治政府の中枢を担うことになる伊藤博文井上馨、残った井上勝山尾庸三遠藤謹助の3人は、それぞれ鉄道、工学、造幣の分野で、その第一人者として日本の近代の形成に大きく貢献しました。
英国では彼ら5人を Chosyu-five (長州5傑)と呼び、彼らが学んだロンドン大学ではその功績をたたえる顕彰碑が建立されています。
高杉晋作を始め、下関を舞台に明治維新の原動力となった多くの人材を輩出した下関には多くの史跡が残っています。
また、先般、この5人を描いた映画『長州ファイブ』に今は亡き下関出身の松田優作の長男、松田龍平が日本工学の父”と呼ばれる山尾を熱演していました。

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長州五傑・・・ロンドンにて長州五傑
遠藤謹助(左上)
井上 馨(左下)
井上 勝(真ん中)
伊藤博文(右上)
山尾庸三(右下)
山尾庸三(工学の父)山尾庸三
(工学の父)

馬関戦争の長州砲レプリカ馬関戦争の長州砲レプリカ
関門海峡に砲身を向けた
長州砲のレプリカ

歳はとっても・・・長州男児・・・吾輩も先人に負けずに頑張るぞ~(^O^)

おかむらの得々情報の答えは・・・山尾庸三(やまお ようぞう)です。
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長州五傑のプロフィール
伊藤博文(俊輔) 1841-1909
天保12年(1841)現在の熊毛郡大和町で生まれる。その後萩に移り、父:林十蔵が長州藩士伊藤家の養子となったため、「伊藤」姓になった。 1862年、高杉晋作らと、英国公使館を焼き討ちにする。1863年、英国に留学するが、四カ国艦隊による長州攻撃を知り、翌年帰国。外国艦隊との講話に奔走する。
維新後、外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事等を勤める。 1885年、初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の作成と配布等の功績を残す。 1909年ハルピンにおいて暗殺。 享年69歳
山尾庸三 1837-1917
山口県秋穂二島で長州藩士の次男として生まれる。江戸で航海術を学んだ後、密航、ロンドン、グラスゴーで5年過ごし、1868年に帰国。海軍局教授役を務めた後、明治新政府では工部権大丞・工部少補、大輔、工部卿、法制局長官などを歴任。
工部省では人材教育の必要性を説き、工部大学校(現・東京大学工学部)の設立を果たす。わが国初の盲聾学校の設立(1876年)にも力を尽くした。享年81歳
井上馨(聞多) 1835-1915
天保6年(1835)山口市湯田で井上家の次男として生まれる。11歳のとき山口講習堂に入学、17歳で萩の藩校明倫館に進学する。1862年世子定広の小姓役となり江戸在勤。1864年7月、四国連合艦隊の下関攻撃の計画を知り、英国より帰国、講話談判のため尽力した。
明治新政府になると、外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵などの各大臣を歴任。退任後は元老として活躍する一方財界にも強い影響力を持った。享年81歳
井上勝(野村弥吉) 1843-1910
萩で代官や目付役の要職を勤める武家に生まれ、洋学を重んじた父の影響を強く受ける。長崎で兵学を、江戸では砲術を、さらに函館では英国領事館員に英語を学ぶ。文久3年に、英国ロンドンに密航、留学した。
1868年に帰国、藩の鉱業管理の業務に就く。69年、伊藤に請われて明治新政府の造幣頭兼鉱山正に就任の後、1893年まで鉄道頭、鉄道局長官など鉄道行政の最高責任者を勤め、わが国初の東京・横浜間の鉄道、東海道線の開通を果たした。1910年ヨーロッパ鉄道巡視の途次、ロンドンで客死、葬儀にはかっての恩師ウィリアムソン博士の夫人も参列した。享年68歳
遠藤謹助 1836-1893
天保7年(1836)長門国萩で生まれる。江戸で航海術を学んでいたが、さらに航海術学ぶため早くから外国行きを希望していた。文久3年(1863)にロンドンへ密航、留学。1866年、英国から帰国後は対外折衝役として下関に常駐。
明治新政府では造幣権頭を皮切りに造幣事業に尽力し、1881年造幣局長に就任、日本人だけの手で貨幣を造ることに成功した。大阪・造幣局の「桜の通り抜け」は遠藤が局長時代に始めたもので、彼のレリーフも置かれている。享年58歳

参考文献(山口大学図書)
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